あはははは

「助けてください!」
出せる限りの声で、彼は叫んだ。彼女が死んでしまう。彼女が死んでしまう。認められない。そんなことを、受け入れることはできなかった。腕の中の彼女は動かない。眠っているようだった。床の冷たさが、足に刺さる。気のせいか、彼女の体が、少し冷えてきた。もっと強く抱きしめる。足を止める人はだれもいない。もう一度叫ぼうとした。
「あはははは」
笑い声がして振り返ると、前髪を揃えた小学生くらいの男の子が、彼を指さして笑っていた。大声で、人形みたいに。

胸が渦巻いた。彼女は死にそうなのに。助けが必要なのに。それなのに、このガキは!
おい、と言おうとして口を開けると、「あはははは」「あはははは」「は、は、は、は」「あはははは」「あはははははは」…
あちこちから、笑い声が立ちのぼってきた。見ると、あの人もこの人も、二人を指さして大きな声で(元気よく)笑っている。「あはははは」「あはははは」「あはははは」「あはははは」「あはははは」「あはははは」「ははははは」「あはははは」
「わらうな、わらうな、やめろ、わらうな」
前よりも大きな声が応えた「あはははははは」「あはははははは」「あはははははは」「あははははははは」「あははははははは」「あははははは」…
二人はすっかり囲まれていた。指と笑いが覆っていた。彼女が呻く。眉をよせている。苦しそうだった。声はやまない。ますます、大きく、大きく、大きく響いている。
彼は目を閉じた。

彼女の声。「おーい、起きろー」
顔をあげると、彼女の顔があった。「あ、起きた。コーヒー、買ってきたよ」
映画館の近くのオープンカフェ。先に席をとっておいて、彼女を待っていたのだった。(映画を観にきて、早く着いたから時間つぶしてたんだっけ)
「こわい夢でも見た?」
「ああ、見た。このあいだ貸してくれた、原作のワンシーンみたいだったけど、すごい恐いんだよ」
「ふうん」
「本当に恐いんだって」 彼女が笑う。風邪もひかない彼女が笑う。いい天気で、コーヒーもうまい。なんであんな夢を見たのだろう。昨日は原作を読んで寝たけど、それがまずかったとは思えない。
(まあいいか、別にどうでも)
それきり、彼は考えないことにした。

しばらくして。二人はオープンカフェを出て映画館の方へ歩いていった。
「あはははは」
不意に、笑い声がして二人が振り向くと、小学生くらいの、前髪を揃えた男の子が、二人を指さして笑っている。そして、彼は、なんだか、周りの人達が、立ち止まって自分達の方を見ているような気がしてならなかった。